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Text File  |  1996-07-26  |  29KB  |  432 lines

  1. 属性:デスクトップの向こう={内包された世界}
  2.  
  3. 八十秒。いつものように何ら誤りもなく、きっかり八十秒で私は起動した。
  4.   まずいかにも機械的な音色で自慢の起動音を発して機先を制してから〜
  5.     静かに起動スクリーンを画面に表示する。
  6.   それからギガギギギ、と何かを引っ掻くような、あるいは扉の蝶番が軋むような、〜
  7.     あまり好ましくはないアクセス音を必要以上に響かせながら〜
  8.     機能拡張やらコントロールパネルやらを順次読み込んでいき、次いでFinderを起動し、〜
  9.     最後に起動項目からローンチャとスクリーンセイバーを威勢よく立ち上げる。
  10.   その間彼は私の前に坐って居ずまいを正したり椅子の坐り心地を確かめたり咳払いをしたり〜
  11.     キーボードの位置を微調整したりマウスを転がしたり首をポキポキ鳴らしたり〜
  12.     一心に画面を凝視したり部屋を眺め廻したりなどしながら辛抱強く待っている。
  13.   私ももう少し早く起動したいのだが今の私の能力ではこれが精一杯で、それは彼も承知している。
  14. 以上
  15.  
  16. 彼が会社から帰宅し、一日の疲労を如実にその体表に浮かび上がらせながら私の前に着座して〜
  17.   まず最初にすることは、日記を書くことだ。
  18.   日記は以前から書いていたらしく、機械に不慣れな彼としては日記を書くことで私に慣れ親しもうとの〜
  19.     ことだったらしいのだが、彼のキーボード操作は一向に上達する様子がなく、〜
  20.     そのたどたどしさは私を使い始めた頃と殆ど変わらない。
  21.     画面を見る時間よりもキーボードを睨んでいる時間の方が遥かに長く、〜
  22.       それでいてキーがどこにあるのか分からず手が固まって動かなくなってしまう。
  23.     慎重に一文字一文字確認しながら打ち込んでいるにも関わらずをがわになっていたり〜
  24.       、がねになっていたり。がるや流になっていたりたとちを間違えたりということがよくあり、〜
  25.       それは彼の疲労度と見事に比例している。
  26.     彼の日記には今だに訂正されていない誤記入が九十八存在する。
  27.     因みにあとになって誤記入が訂正されたことは一度しかない。
  28.   何より彼は姿勢が悪い。私の前に縮こまって坐るその姿は余所目にも見窄らしく、〜
  29.     彼を一回りも老けさせ、彼の妻も“爺むさい”と酷評した。
  30.     もともと彼は猫背だが私に向かうとそれが更にひどくなり、そのため彼の内臓は〜
  31.       必要以上に圧迫され日に日にその機能を低下させており、それらは悲鳴を上げて彼に〜
  32.       警告を発しているが、私のように華麗な警告音を発することができないので〜
  33.       彼はまだそれには気づいていないようだ。
  34.     私なら悪くなった部品は交換すれば済むのだが、彼にはそれができない。
  35.   以上
  36. 以上
  37.  
  38. 彼は脇にあるいかにも軽そうな灰皿をいかにも重たげに引き寄せると、常時携帯している煙草とライターを〜
  39.   無造作に取りだして火をつける。
  40.   一連のこの動作を彼はいつも殆ど無意識的に行っており、二本目に火をつけ灰皿に置こうとして〜
  41.     一本目の吸い殻を眼にして初めて二本目だと気がつくこともあるくらいだった。
  42.   ガスが切れ掛かっているらしく、ライターは石のこすれる音と細かな火花を散らすばかりで〜
  43.     なかなか炎を上げない。
  44.   私は何度も忠告したのだが彼の喫煙量は最近増加傾向にある。
  45.     彼の日記によると私を購入してからそれは増加しているようなので、〜
  46.       私としても責任を感じざるを得ない。
  47.     しかもこの部屋は喚起が悪くて空気が籠り勝ちになり煙も溜まり易く、〜
  48.       忽ち室内は薄ぼやけた光景になってしまう。
  49.       それというのも唯一窓のある壁面が漫画ばかりで占められた書棚で塞がれているからだ。
  50.       そして少なくとも私が来てからこの部屋の窓は一度も開かれたことがない。
  51.       従ってこの部屋の夏場の温度上昇は計り知れないものがあり、温度と湿度の調節のために〜
  52.         エアコンは欠かすことのできない存在で、殆ど一年中稼働しており、〜
  53.         この部屋で最も酷使されている。
  54.     この密室状態は私にとっても悩みの種で、この部屋は掃除が行き届いていないせいで〜
  55.       異常に埃っぽく、それは偏に彼の怠慢だが、モニタの上には堆く埃が積もっているし、〜
  56.       私の中へも微細な埃が絶えず侵入してくる。私の中は一面の銀世界だ。
  57.       私はここへ来てから一度も太陽の光を浴びたことがなく、清浄な空気が私を包んだこともない。
  58.       太陽の光を私は必要としないが、この部屋は居住環境としては最悪の部類に入るのではないか。
  59.     貧弱な蛍光灯の光は分け隔てなく室内にある総てのものをくすませ、〜
  60.       そのため彼の顔も一層病的に見える。
  61.       明るい太陽光の下で見たことがないので何とも言えないが、少なくとも私の前に坐る彼は〜
  62.         神経質そうなあまり存在感のない影の薄い人間という光だけを絶えず反射させていた。
  63.       彼は常に精神的肉体的疲労を抱えており、私はそれを解消すべく試み、彼もそれをいくらか〜
  64.         期待しているらしいが、今のところその期待に充分に答えているとは言えない。
  65.     以上
  66.   九回の親指の運動の末にようやく小さな炎が上がり、煙草の先が赤く染まる。
  67.   喫煙量に加えて彼の酒量もかなり増加しており、そのことも彼の内臓機能低下の原因のひとつに〜
  68.     数え上げられる。
  69.     昨日もアルコールを摂取してきたらしく、彼は私の前には坐ったものの、〜
  70.       ゆらゆらと揺れ動く体を固定するのに必死で、結局起動できなかったので〜
  71.       日記はつけられていない。
  72.     彼は今、昨日の日記をつけるべく険しい顔つきで私を睨みつけて〜
  73.       記憶の検索に当たっているのだが、該当する記憶は見つけられないようだ。〜
  74.       というより記憶そのものが存在していないようだ。アルコールのせいで脳機能の一部が〜
  75.       低下したためだ。最近彼によく見られる現象だ。
  76.     しかし彼はこれらのことをさほど気に掛けてはいない。
  77.       それより何より彼が目下のところ心配しているのは日増しに後退する額のことだ。
  78.       日々光の反射率が高くなっていく彼の額のことだ。
  79.         五月八日 水曜日
  80.           やはり遺伝なんだろうな。じいちゃんも見事に禿げあがっていたしな。
  81.           いずれ私もああなるのだろう。しかし、やるだけのことはやるさ。
  82.           みすみす毛がなくなるのわ黙って見てなどいられるものじゃないし、〜
  83.             回復する見込みもあるかもしれないからな。
  84.         五月十七日 金曜日
  85.           最近人の私を見る目線が少し上向きなのを感じている。話している間にもともすると〜
  86.             私の眼を通り越して額に流れていくのが分かるる失礼にもほどがある。
  87.           それともこれは私の思い過ごしだろうか。神経過敏になっているのか。
  88.         六月十八日 火曜日
  89.           どうも額の面積が加速度的に大きくなっているような気がする。気のせいではなく、〜
  90.             この一ヵ月で確実に額は拡大している。日一日と頭部に攻め入り〜
  91.             食い込んでいき、その版図を広げている。このままでは頭頂に達するのは〜
  92.             時間の問題だ。原因はやはりあれだろうが、解決する見込みはあまりない。
  93.         以上
  94.       そのストレスも彼の健康を害するのに荷担していることは間違いないが、〜
  95.         こればかりは私にはどうすることもできない。
  96.       以上
  97.     以上
  98.   以上
  99. 以上
  100.  
  101. 彼が私ですることと言えば、最近滞りがちとはいえ辛うじて命脈を保っている日記と、〜
  102.   ちょっとした原稿を、覚束ないキーボード操作で書くぐらいにとどまっていた。
  103.   そこから先へはあまり進展しなかった。
  104.   私にはもっといろいろなことができるにも関わらず、彼はそれくらいにしか私を使わなかった。
  105.     起動スクリーンのPICTファイルにしても彼の友人が作成したものをコピーして使っているし、〜
  106.       今彼が開いている日記はHypercard書類だが、勿論これも彼の手になるものではなく、〜
  107.       彼の友人が彼の求めに応じて作成したものだ。
  108.     多機能ワープロもインストールされてはいるのだが、彼がそれを使うことは滅多にない。
  109.       その機能の殆どが彼には理解不能で、機能の多さは彼の不理解にのみ機能しており、〜
  110.         それを使って書類を作るのに彼は非常な努力を必要とし、〜
  111.         過剰なストレスに甘んじなければならなかったので、〜
  112.         どうしてもというときにしか使用しなかった。
  113.     彼は私を購入した当初から、いやそれ以前からその友人に頼り切りで、込み入ったことは〜
  114.       総てその友人にやってもらっている。
  115.       この彼の友人は骨太の筋肉質で色が黒く、所謂“マッチョ”とまでは言わないが〜
  116.         それに近い体格の持ち主で、一見私のようなものとは無縁な“アウトドア派”に〜
  117.         見えるが、そのコンピュータ全般に関する知識と経験は相当なもので、〜
  118.         彼はこの友人に全幅の信頼を寄せている。
  119.       それゆえアプリケーションのインストールからメモリの増設まで、その殆どをこの友人が〜
  120.         一手に引き受けたのだった。進展しないのも無理はなかった。
  121.     購入当初、彼の友人はしばしば動員され、彼の矢継ぎ早の質問を受けたが、〜
  122.       その都度友人はいやな顔もせず、ひとつひとつの質問に懇切丁寧な説明を〜
  123.       長時間してくれるのだが、彼は飲み込みが悪くなかなか理解できないらしく、〜
  124.       曖昧な返事を繰り返していた。
  125.     そして不理解のままに彼は操作を続行して、すぐにまた袋小路へと入り込んでしまう。
  126.       “なあ、これ、どうすんだっけ? それはさ、そこを、違う違う、そこじゃなくて……そう、
  127.         それ、……こうか……ああ、これ違うよ、そうじゃなくこれか? あれ……〜
  128.         ちょっと貸してみな………なんか、よく分からんな……”
  129.       このようなやり取りが何度も私を前にして行われ、彼が同じ質問をすることも稀ではなかった。
  130.       “何でそうなるんだよ……おかしいよ、こいつ”などと理不尽な怒りをぶつけてくることも〜
  131.         度々だった。
  132.       今でこそそのような言動は少なくなったものの、購入当初は日常茶飯のことだった。
  133.     以上
  134.   しかし一度自力で年賀状を作成してみようと試み、意気込んで私の前に坐ったことがあった。
  135.     “大丈夫なの?”彼の妻が彼の後ろに立って彼の背中越しに画面を見つめながら不安げに言った。
  136.     “こんなの簡単だよ”そう彼は嘯いたがその眼はどことなく泳いでおり、まるで長時間画面を〜
  137.       見続けたあとのように早くも赤く充血して焦点は定まっていなかった。
  138.   私は静かに彼の作業を見守っていた。
  139.     彼の弛まぬ努力により年賀状は着々と完成へと向かいつつあった。
  140.       試行錯誤の連続でしばしば後退を余儀なくされたものの、彼は果敢に前進を試み、〜
  141.       その成果は徐々に蓄積されていた。
  142.     しかし彼は年賀状を完成させることができず、十二月二十八日になって妻と二人で〜
  143.       総て手書きで書き上げた。
  144.       “簡単だって言ってたくせに”という彼の妻のさり気ないが鋭角的な発言が〜
  145.         重く彼の背に伸し掛かり、その背は一層丸くなった。
  146.     なかば忘れられているその年賀状の成れの果てが、今もハードディスク上に後生大事に〜
  147.       保存されている。
  148.     以上
  149.   これらの状況から判断して仮にも私が有効に活用されているとは言い難った。
  150.     しかしだからといって彼が私を見くびっていたというわけではなく、〜
  151.       私が無駄に埃を被っていたというわけでもない。
  152.     そう簡単に短絡的に結論づけることはできない。
  153.     彼は私の能力を充分以上に知悉していたし、その能力を最大限に生かそうと努力もした。
  154.       彼の月給ではなかなか手のでないような高額なアプリケーションをいくつも買い込んでは〜
  155.         マニュアルや解説本と首っ引きで悪戦苦闘した。
  156.       勿論それは友人の助力や教示があってのことで、それなしで彼が続けられたとは到底思えない。
  157.     以上
  158.   しかし彼の努力は実らなかった。奮闘努力の甲斐もなく、途中で挫折してしまった。
  159.     購入してはや三ヵ月で私の使用時間が半分以下になってしまったのだ。
  160.     そのことを彼は恥じており、私に申し訳ないといつも心に思っていた。
  161.       私はそれを知っていたし、彼の努力が並大抵のものではなかったことも承知していたから〜
  162.         彼を攻めたりはしなかった。
  163.     彼が私を立ち上げる度に私は彼を慰め励ましていた。
  164.       今のところ私がなくても日常生活で特に困ることはなく、〜
  165.         将来必要不可欠のものになってもその頃には今よりもっと使い易くなっていることは〜
  166.         絶対確実で、それまで待てばいいだけのことで、しかもその技術革新は驚くほど早い。
  167.     そのせいかどうかは分からないが、彼は完全には諦め切ってはいなかった。
  168.     彼との回路は断線せず、彼の友人のバイパスにより辛うじて繋がっていた。
  169.       彼は時間を掛けてゆっくり少しずつ習得すべく日々私に向かっていた。
  170.       暇を見てはマニュアルや解説本を広げて熟読し、私を使用するときもそれを手放さず、〜
  171.         疑問点があればすぐに友人に質問するなどしており、それは今も尚続いている。
  172.     以上
  173.   それだけ彼の私に対する希望と期待が絶大だということで、私も満更ではない。
  174.   以上
  175. 以上
  176.  
  177. 彼が紙の日記をやめて私で日記を書き始めたのは、昨年の冬だった。“結局地道にやるしかない”〜
  178.   と妻に言われ、“日記か、そりゃいいね。うん、いい考えだ”と友人にも太鼓判を押され、〜
  179.   そのように判断を下し実行に移したのだった。
  180.   二月九日 木曜日
  181.     今日からパソコンで日記を書くことにした。記念すべき〝パソコン日記〟の第一日目だ。
  182.     しかし不安も少なからずある。続くかどうか。しかしやるしかない。
  183.     毎日のことだからこつこつと倦まず弛まずやっていればいつかは必ず報われる。
  184.     に違いない。塵も積もれば方式だ。パソコンには一獲千金方式は通用しない。
  185.     とにかくキーボードアレルギーだけは何としても克服しなければどうにもならず、〜
  186.     聞けばここで脱落してしまう人が殆どだと言うではないか。最初にして最大の難関なのだ。
  187.     逆にそれをクリアしてしまえば、あとはかなり楽になるはずだ。恐らく。
  188.     とりあえずは体で覚えることが先決だ。ひとつひとつの細胞にしっかりと記憶させることだ。
  189.     それには日記は持ってこいだ。妻もたまにはいいことを言う。
  190.     私のことだからすらすらとはいかないかもしれないが、せめて人並みくらいにはできるように〜
  191.       なりたいものだ。
  192.     それにこれからはペーパーレスの時代とも言われている。これで紙資源の節約にいくらかでも〜
  193.       貢献できれば一石二鳥ではないか。
  194.     その鳥が兎に変貌しないことを願う。
  195.   以上
  196.   しかし彼は電力の節約のことには微塵も思い及ばなかった。
  197. 以上
  198.  
  199. 彼の表現を借りれば友人の“眼にも止まらぬ鮮やかなキー操作”によって、私は初めてその本領を〜
  200.   発揮することができ、それによって彼は世界各国から怒涛のように押し寄せる〜
  201.   様々なホームページをいやというほど見ることができた。
  202.   友人に頼んで彼が見たのは主に成人向けの“目眩くエロスの果てしない響宴”だった。
  203.     私は彼の友人の指示に従って無修正の写真や動画を無際限に画面に映しだし、〜
  204.       彼らはそれを次々に閲覧していった。
  205.     彼らの瞳孔は終始開きっ放しで、瞬きの回数も極端に減り、〜
  206.       その眼はすぐにからからに乾いてしまった。
  207.     私は調子に乗って倒錯的なものや犯罪的なものまで映しだし、しまいには彼らの気分を〜
  208.       著しく害し、軽い吐き気を催させた。それまでの彼らの狂騒的な熱は一気に冷めてしまった。
  209.   しかしそれだけではなく、他にも彼らの眼を惹いたものはいくつもあった。
  210.     例えばメディアに乗らなかったニュースの芋蔓式に出てくる膨大な関連記事や、〜
  211.       美術館、博物館に埋もれていた未公開のしかし貴重な作品群や、〜
  212.       他にもめちゃくちゃ大きいのや異常に小さいのやひねくり曲がったのや真っ直ぐのや、〜
  213.       捻れたのや潰れたのや長いのや短いのやいい匂いのものや臭いのや、〜
  214.       可愛いのや怖いのや痛いのや眠いのや賢いのや馬鹿なのや生きるのや死ぬのや、〜
  215.       どうでもいいものやどうにもならないものや、むむむやほほうや、〜
  216.       その他ありとあらゆるものを、彼らはその乾き切った眼で逐一垣間見た。
  217.   私の内には彼らの望む大抵ものはあるが、彼らの望まないものも一通り揃っているということを、〜
  218.     そのとき彼は知った。
  219.     “ネットに繋がってなきゃパソコンとは言えないね”彼の友人は低音のよく響く声で〜
  220.       得々として言った。
  221.     “しかし驚いたね、あんなのありか。やばいんじゃないか?”その言葉とは裏腹に〜
  222.       彼の頬はだらしなく弛んでいた。吹き出す一歩手前だった。
  223.     “いろいろあるさ”友人の頬も彼に釣られて幾分弛み、僅かに声が上擦った。
  224.     “でも使えなきゃ意味ないよ”と言うと彼の笑みは少し後退し薄くなった。
  225.     “習うより慣れろだよ”
  226.     “いや、俺にはむつかしくてよく分からんよ。英語もからきし駄目だし”なかば諦念に〜
  227.       捉えられたような面持ちで彼が呟いた。
  228.     “無理することはないさ、できることからやりゃいいんだよ”
  229.     “できることがあればの話だろ”言い終わると彼の笑みは完全に消え、その口から吐き出された〜
  230.       煙草の煙も重く沈んだ。
  231.   それでも何か途轍もなく巨大なものを彼は私の中に見出したらしかった。
  232.     彼はインターネットの魅力に取り憑かれてしまった。
  233.     私の内に広がるネットの無限に近い広大さやその可能性に、魅せられてしまった。
  234.       半分は成人向けの“目眩く”ホームページにだが。
  235.     以上
  236.   そして翌日無謀にも彼はひとりでインターネットに挑み、友人の職人を思わせる手捌きを〜
  237.     思い出しながら操作したものの、見たくもない折目正しいホームページが現れるばかりで〜
  238.       目的のホームページには遂にアクセスできなかった。どこをどう探しても目当てのものは〜
  239.       その姿を現さなかった。
  240.     サーフィンどころかネットの海の波打ち際に佇んで足を湿らせる程度でしかなかった。
  241.     それでも彼は怯むことなく翌日も挑戦したが、忽ちネットの迷子と化し、〜
  242.       果てもない情報の迷宮の中をなす術もなく右往左往するばかりだった。
  243.   インターネットはその時点の彼には“垂直に切り立つ懸崖、しかも地の底から遥か天の彼方まで〜
  244.     聳えるような懸崖を素手で登るようなものだった”とのちに彼自身記述している。
  245.   以上
  246. 以上
  247.  
  248. 起動してから三十六分経過したが彼はまだ何も入力していない。
  249.   日記のウインドウの左上にあるキャレットが規則的に点滅しているだけでページは白紙のままだ。
  250.   彼の指はふわふわと宙を彷徨い続け、頑なにキーボードに触れようとしない。
  251.   疲労のあとが窺えるまるでディスク上の不良ブロックのような虚ろで濁った視線を〜
  252.     私に向けながら、しかし彼は何も見ていない。
  253.     彼は右手に軽く掴んだマウスを弄んで八の字を描いたり、意味もなくボタンをクリック〜
  254.       したりなどしながらぼんやり何か考えている。あるいは考えようとしている。
  255.     彼の些か深爪の人さし指がマウスのボタンを叩く度にカチッ、カチッと硬質でさわやかな〜
  256.       心地よい音が、この物で溢れ、なかば納戸と化してはいるが、一応彼の書斎ということに〜
  257.       なっている六畳の部屋全体に沁み渡り、溶け込んでいく。
  258.       しかしその一部は谺となって律儀に私の許へ還ってくる。
  259.     音といえば私の発するファンの音が静かにしているだけで他に音らしい音もない。
  260.     いや彼の呼吸ともため息ともはっきりしない呼気が、正確に五秒に一回その口から漏れ、〜
  261.       煙草の薄い煙と共に生暖かい風を私に送っている。吹きつけられたその気体は〜
  262.       モニタの熱による上昇気流で次々に天井へと運ばれていく。
  263.     以上
  264.   と突然意を決したようにマウスパッドの上をマウスがすうとなめらかに滑っていく。
  265.     デスクトップ上ではカーソルがそれに連動して画面の左上の方に動いていき、〜
  266.       ファイルメニューの<HyperCard終了   □Q>を選ぶ。
  267.   彼は何も書かずに日記を閉じてしまう。そしてその上半身を椅子の背凭れに預け、〜
  268.     両手をだらりと垂らすと、大きく息を吸って吐いた。それを続けざまに三回行った。
  269.   それから彼は灰をたっぷりつけた煙草を斜に啣えたまま、〜
  270.     徐ろに席を立って私にその疲れ切った猫背を向けると、煙を棚引かせながら〜
  271.     そのまますたすたと摺り足で行ってしまった。
  272.   残された私は誰もいない空間に画面を表示し続ける。
  273.   以上
  274. 以上
  275.  
  276. 私の下には使い古された傷だらけの木製の机がある。というよりその机の上に私が置かれている〜
  277.   と言った方が一般的か。
  278.   真正面にはCDラック、右手には天井にも届くほどの高さに聳えて外からの光を〜
  279.     完全に遮断している二つの書棚、左手にはミニコンポ、それにあらゆる家具調度や〜
  280.     二段に積まれたいくつもの段ボール箱の中に納められた数々の品。
  281.   この部屋にあるこれらの品物の中で最も長い歴史をその身に有しているのが、〜
  282.     私が尻に敷いているこの机だ。
  283.   彼とももうかれこれ一年八ヵ月と十八日になるが、この机は何とかして欲しい。
  284.     確かにその歴史を彼と共に歩んできたという揺るぎない威厳と何者にも犯し難い確固たる〜
  285.       自負があり、それでいてそれをひけらかすこともなく終始控えめな態度で場を占め、〜
  286.       不平も言わずに新米の私を支えてくれており、私としてもそれを認めるに〜
  287.       吝かではないのだが、それにしてはこの机は極めて安定が悪く、〜
  288.       脚の長さが一定ではないのか、あるいは床のほうが歪んでいるのかは分かり兼ねるが、〜
  289.       ほんの少しの振動でも震度五の地震ほどにもぐらぐらと揺れ動いて危険極まりない。
  290.     電話回線を通じて無限の広がりを持ち、世界を内包していると言っても過言ではない〜
  291.       私を支えるのにこの机では少々心許ない。
  292.       その頼りない四本の脚は今にもぽきんと折れてしまいそうだ。
  293.       私の提示するこの意見はいつも彼によって悉く却下されてしまい、審議の対象にはならない。
  294.     彼にとっては何か大切な代物らしいのだが、私にしてみれば不安定な、私には似つかわしくない、〜
  295.       殆ど粗大ゴミと変わらない傷だらけの中古の机に過ぎない。
  296.     以上
  297.   だからそこに入れ替わりに彼の息子がドタバタと大きな足音をさせながらやって来くると、〜
  298.     机は大きく揺れ動き倒れそうになる。
  299.     息子はいつものようにこれ見よがしにいやというほど椅子を軋ませて私の前に坐ると、〜
  300.       素早い眼球の動きでちらりと斜めにドアの方を窺ってから、歯列矯正の金具をつけた〜
  301.       並びの悪い歯を覗かせつつ、にやりと不敵に笑ってすぐさまゲームソフトを起動する。
  302.     私が軽快な電子音でそのBGMを部屋中に満たしてやると、息子は早くも興奮し始め、〜
  303.       歯列矯正の金具が一段とその輝きを増し、そこから屈託のない笑みが飛びだす。
  304.   使用頻度から見て私を最も利用しているのはこの六歳になる彼の息子だが、この息子には〜
  305.     私も少々手を焼いている。
  306.     時として哲学的とも言える利発な表情をその眼の輝きの中に仄見せるものの、〜
  307.     概ねやぶにらみのこの息子には、私に対する愛情などはカケラもなく、〜
  308.     私のことを単なるオモチャか、あるいはそれ以下にしか見ていない。
  309.     私がこの部屋にあるどの製品、什具よりも優れた汎用性を持っていることなど微塵も〜
  310.       理解してはいないどころか、理解しようとさえしない。
  311.   今のところ私をフリーズさせる一番の原因はこの息子だ。
  312.     この息子は貪欲で何にでも手を出し、めちゃくちゃに引っ掻き廻した挙句、〜
  313.       最後にはフリーズさせてしまう。
  314.     フォルダを所構わず移動させるなどは日常茶飯で、父親の叱責にも全く動じる気配なく〜
  315.       懲りずに何度でも同じことを繰り返す。私の言うことなど聞きもしない。
  316.     今もその乱暴な扱いが、一瞬私をひやりとさせる。
  317.   一度この息子のために二週間も修理に出ていたことがある。
  318.     あのときは私ももう駄目かと諦め掛けたが、何とか一命を取り止め、また彼の許へと〜
  319.       戻ってくるこができたが、息子の横暴が止まない限り、その危険性もなくならない。
  320.   彼の妻は彼と同程度に私を使用している。
  321.     しかしそのキーボード操作は彼よりも早く正確で、少なくとも機械への順応性という点から見れば〜
  322.       彼より遥かに優れた順応性を有しており、将来性は彼女の方がある。
  323.       彼女は私を使って主に家計簿をつけている。
  324.       昼間、暇なときには息子とゲームをしたりもするが、今のところ積極的に私を使おう〜
  325.         というような気持ちは見られない。
  326.     彼女は私のことを便利な家計簿ぐらいにしか思っていないらしい。
  327.     以上
  328.   以上
  329. 以上
  330.  
  331. 彼はその青年時代に描いたどこにも発表していない漫画原稿を、五十タイトル近く大切に保持していた。
  332.   パソコン購入に当たって私を勧めたのも、その機種選択の全権を委託された彼の友人だったが、〜
  333.     全世界で圧倒的シェアを誇るOSを搭載したパソコンではなく、グラフィックに強いと言われ〜
  334.     その優れたGUIに定評のある私を選んだのも、その辺のことがあったのではないかと私は推測する。
  335.     実際仕事には殆ど活用されてはいないが、購入当初は彼もあらゆることに私を導入しようと〜
  336.     試みていた。しかし却ってその積極性が仇となり、数々の失敗を招いたため、〜
  337.     今ではそのような気はあまりないらしい。
  338.   それでも私の誇るGUIが、彼をいくらか助けていると私は自負しており、〜
  339.     その意味で私を推薦した彼の友人の判断は正しかったと言える。
  340.   彼は友人の勧めるままに私を購入したらしいのだが、今は彼もそのことに異存はないようだ。
  341.     私でなければ彼の“額の後退速度は今の倍にはなっていただろう”、そして私でなければそれは〜
  342.     “何の役にも立たないただの箱に成り下がってしまっただろう”と彼が友人に話すのを私は聞いた。
  343.   以上
  344. 以上
  345.  
  346. この部屋に人がいないとき、室内は殆ど闇に包まれている。
  347.   従ってこの部屋では人のいるときが昼、いないときは夜となる。天体の運行とは何の関係もなく、〜
  348.     昼と夜がランダムに訪れ、それは乱れ飛ぶ素粒子の振る舞いのように不確定で捉え難い。
  349.   天井に設置された電灯の光がそれを左右しており、それは即ち電灯を使用する人が〜
  350.     その絶対的権限を独善的に堅持しているということになる。
  351.     つまりこの部屋は世界と真っ向から対立しており、壁一枚隔てただけの外的世界とは隔絶した、〜
  352.       この部屋だけの独自の絶対的時間と無秩序的空間を形成しているのだ。
  353.     世界全体からすれば殆どないと言っていいほどのこのちっぽけな空間が、それでも世界と対等に〜
  354.       渡り合えるのは、その身に世界を内包しているこの私がここにあるからだと、〜
  355.       密かに私は信じている。
  356.   ところで必ずしも人の出入りと昼夜の別が対応しているわけではない。
  357.     何故なら彼の息子が電灯を点けたまま部屋を出ていってしまうことがあるからだ。
  358.       そんなときは一日中昼が続き、下手をすると翌日の朝まで、不夜城のごとく煌々と〜
  359.         明かりが灯っていることもある。
  360.       それで彼の息子は幾度となく両親に叱られているが、そんなことでこの息子が〜
  361.         めげることはなかったし、それは却って息子のやぶにらみを一層強化させることにしか〜
  362.         役立ってはいなかった。
  363.     その逆に一週間、延々と夜が続いたことがある。
  364.       五月の連休で一家が彼の実家の広島へ行ってしまい、留守にしていたからだ。
  365.       途轍もなく長い夜だった。とにかく長い夜で明けても暮れても夜が続き、〜
  366.         闇が総てを支配しており、これこそが本物の夜だという確信を私は次第に強めていき、〜
  367.         遂には朝の到来を待ち焦がれるようになった。
  368.       夜が続いた七日間、この部屋に足を踏み入れる者は誰ひとりおらず、〜
  369.         空気は微動だにしなかった。室内にある総てのものは動きを止め、休息していた。
  370.       一度だけ電話が鳴り響いてしばらくこの部屋の空気を掻き乱したものの、〜
  371.         すぐに鳴り止み、全体としては一様に静かな一週間だった。真の夜だった。
  372.     あの一週間は私にとっては良い休息となったが、彼らは疲労をしこたま抱え込んで帰ってくると、〜
  373.       その飽和限界の疲労を一気に放散させた。そしてその疲労を総て飲み込んでしまう〜
  374.       住み慣れた我が家が最も快適だということを再確認し合っていた。
  375.     以上
  376.   そのときもミニコンポのデジタル表示の時計を除いてこの部屋に発光体はなく、辺りは完全と〜
  377.     言っていいほどの静寂が幅を利かせており、家中の者がすでに寝静まっていた。
  378.     八月十四日、月曜日の深夜のことだ。
  379.       時々部屋のあちこちでまるで己の存在を誇示するかのようにピシピシと何かが軋んでいた。
  380.       私もそれに答えたりなどしていたが、暗い室内の私の目の前にあるCDラックの上で何か〜
  381.         黒い塊がカサカサと動いたのに気がついた。ゴキブリだった。
  382.       殆ど闇と見紛うばかりの一匹の巨大な漆黒のゴキブリが、その細いしなやかな触角を〜
  383.         盛んに動かしながら私を見下ろすようにして私の前に現れたのだった。
  384.       ゴキブリは自分こそがこの家の主だとでもいうような鷹揚で尊大な態度で周囲を見廻していた。
  385.       何か食べるものを探しているらしかったが、この部屋には脂臭い埃が蔓延しているばかりで、〜
  386.         ゴキブリの消化器に納まるようなものは何ひとつなかった。それでも盛んに触角を〜
  387.         動かして、頻りに食べるものを探し廻っているところを見ると、相当空腹のようだった。
  388.       私がそのゴキブリに気がつくと同時にそのゴキブリも私に気がついたようだった。
  389.         私とそのゴキブリは二十秒間睨み合っていた。私を食べようとでもいう気なのだろうか。
  390.       先に眼を逸らしたのはゴキブリの方だった。
  391.       ゴキブリは一旦私から眼を離すと、もう私のことなどは完全に忘れ去ってしまったが、〜
  392.         それでも捨て台詞のように一瞬背中の翅を七色にきらめかせて廻れ右をし、〜
  393.         そして再び周囲の闇と同化してどこかへ行ってしまった。
  394.       以上
  395.     以上
  396.   以上
  397. 以上
  398.  
  399. 申し遅れたが私の名前は“羽太庄作”という。
  400.   これは彼がつけた。
  401.     忘れもしない、あれは私がこの家に来てから七十六日後のことで、〜
  402.       そのとき彼は日記を書いている途中だった。
  403.     仕事疲れの虚ろな眼を見開いて彼は私の前に坐り、カチカチカチッとキーボードを叩いていたが、〜
  404.       急にキーボード上を彷徨う手を止めて、何かを思い出したかのように“あっ”と〜
  405.       短く叫んだかと思うとFinderに戻り、デスクトップの右上にある私のアイコンの下に〜
  406.       表示されていた[Macintosh HD]という何の飾り気もない無味無臭の〜
  407.       名前とも言えない名前を徐ろにクリックして、その不器用な手つきで〜
  408.       “羽太庄作”という文字列に書き変えたのだ。
  409.     それが済むと、彼はまた何事もなかったように、いつものぎくしゃくした指使いで〜
  410.       日記の続きを書き始めたのだった。
  411.     そして日記を書き終わると、彼は私を終了してそそくさと部屋を出ていってしまった。
  412.   この名前の由来は私には分からない。
  413.     住所録にこの名前は記載されてはいないし、彼の日記にもこの名前は一切出てこない。
  414.     ハードディスク上のどこにもそのような文字列は存在しない。
  415.     彼の最近あまり使われていないように見受けられる頭の中のニューロンのどこかに、〜
  416.       その文字列は存在しているのだろう。
  417.       何か彼にとっての重要な記憶と共に。
  418.     あるいはただの思いつきかもしれず、すでにその文字列は捨てられてしまって〜
  419.       彼の頭の中には存在していないかもしれない。
  420.     いずれにしても彼が私の名前を変えたという事実に変わりはない。
  421.     以上
  422.   この四文字を正確に何と発音するのか私は知らない。
  423.     しかし私はこの名前を痛く気に入っている。
  424.     この名前によって私はどこにでもあるただのパソコンではなく、〜
  425.       他の何物でもない“羽太庄作”になったのだ。
  426.   彼の本意がどうであったかは分からないが、この名前をつけてくれた彼に私は感謝している。
  427.     たとえそれが愚にもつかない単なる思いつきにもせよ。
  428.     なぜならこの文字列を獲得したことで、私はこのテキストを記述することが可能になったのだから。
  429.   以上
  430. 以上
  431.  
  432.